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10月のことば

ある日のこと。 いっすんぼうしは、きちんと両手をついて言った。

「おいら、ひろい世の中へでてみたくなりました。じいちゃん、ばあちゃん、おひまを下さい」

おじいさんと、おばあさんは、えらいおどろき、

「なんと、おまえ。むらの子にいじめられるようなものが、どうして、一人で世の中へ出られるや」

と聞いた。すると、また、いっすんぼうしは、

「おいら、それだから、ひろい世の中へでてみたくなりました。ぜひ、ぜひ、いかせてください」

しまいには、おじいさんと、おばあさんは、根負けして、

「ならば、気をつけて、いけや。大きくなって、もどるんだぞ」と、

いっすんぼうしの願いを許しました。


昔話の「一寸法師」の第二章は、この一人の旅立ちから展開する。

おじいさんは「大きくなって戻るんだぞ」と、一寸法師の旅立ちを許してくれる。

人間の一人立ちは、自立の決意から始まる。

人間がすくっと前向きに立って、どんなことがあっても、

ぐずぐずせず、ふらふらせず、くよくよせず、後ろを向くことなく、

しっかりと自立の生き方をすることが大切なことなのである。

「ならば、きをつけていけや。大きくなって、もどるんだぞ」という、

おじいさん、おばあさんの言葉は、一寸法師への決別の言葉であると同時に、

子を離すことによって、はじめて知る、親の一人立ちの決意が秘められている。

それが、親が自立の中で知る、一人立ちの子に対しての「祈り」となるのである。

親の子供に対する愛は

祈りとなって

はじめていのちとなる

村人にいじめられていた、一寸法師の一人旅を送った、

おじいさん、おばあさんの切ない祈りを拝みたい。

9月の言葉

ほら顔をあげて    私の話を聞いて

少しも難しくないし  無理じゃない

一つのことだけ    あなたに言いたい

それはとても簡単なこと

それさえ守ってくれると

きっとあなたに明るい明日がくるの

それはあなたがあなたを好きになってほしいの

あなたは「自分なんて」と言うけれど

ちがうの 他の誰かに期待しないで

あなたの隣の人が何と言おうと

あなたはあなたの魂を信じて

ただ それだけ

明日の朝こうつぶやくの

「なんて素晴らしい、私は私のこと大好き」


あなたの動く足を見て   しゃべってる口もとを見て

少しも難しくないし     無理じゃない

もうあなたはわかっているはず

それは確かなこと

それさえ信じてくれると

きっとあなたに明るい未来が来るの

それはあなたがあなたに「ありがとう」と言って欲しいの

あなたは「とてもダメ」って言うけれど 違うの

両親や先生に言うのじゃないの

あなたの恋人が何て言おうと

あなたはあなたの魂を信じて

ただ それだけ

明日の朝 こうつぶやくの

「ありがとう。素晴らしい、私はわたしのこと大好き」って

8月の言葉「フリー」

 西洋の自由と東洋の自由では、意味内容が異なります。
西洋の"Liberty"や"Freedom"は何かから離れる、離脱するという意味で、圧迫からの離脱、
開放を意味し、「人は生まれながらにして自由かつ平等である」という。
人権宣言は、アメリカを独立させ、フランス革命を呼び起こした。
ここでいう自由は確かに政治的意味が多分に含まれている。
 東洋の自由は、自らに由るというものなのだから、自然という言葉と少しが意味が変わらない。
人間が食べたり、寝たりする。そういうことを自由という。
自分で働くほうを主にし、それを自由自在とする。
自分が自分の主人公になることが、東洋的意味における自由を獲得することになる。
この意味に於ける自由を獲得するには、自分というものを知らなければならない。
自分を知る人は、出来ることと出来ないことを見分けることができ、良く知っていることを実行し、
必要とするものを手に入れ、豊かに暮らし、知らないところは避けて、過失を犯さず、
多くの人から大切にされるようになる。
 人間の尊厳性の本質は自由に根ざすものである。
だからこそ自由には、現代の多くの日本人が考える西洋的自由と
古来の東洋的自由の二つの意味があることを知ってほしい。
 玄海は、精神的意味合いが大きい「とらわれからの解放」、「自律」、「自立」を獲得することから
自由へと考えている。   あなたはどちらの自由???

7月の言葉「ありがとうはこちらから」

 赤ん坊が溺れていると、誰もがそれを救うだろう。
これは善人でも悪人でも、関係なしにある感情である。
ほめられようとかそういうものではない人間の自然の情である。
 一人の老人が、坂道を大きな荷物を積んだ車を引きながら登っていくとする。
暑い夏の日、老人の息遣いも荒い。
誰かが手伝ってやらないと、坂道を転げ落ちていきそうに見える。
こういった場合、多くの人はその老人を助けるにちがいない。

 問題はそれからである。老人が坂道の上まで登りつめたとき、「ありがとう」のお礼の言葉もなしに立ち去ったとき、私たちは「おやっ」っと思ってしまう。
「この暑いのに力を貸してやったのに・・・」
胸の内から濁った気持ちがわいてくる。
考えてみると、老人から頼まれたわけでもなく、勝手に可哀そうで助けたのである。
その時、お礼を言ってくれることも計算してなかったはずである。
助けたのは老人のためではなく、自分の安らぎのための行為であったかもしれない。

 「ためにしてやった」のではなく「助けたいから助けたのだ」という意識に基準を置けば、
いつもロクなことをしていない自分が、あの老人のおかげでいいことをさせていただいた。
と感謝する気持ちになれば「ありがとう」はこちらからということになる。
「きりかわり」とはこれをいう。
「ものは考えよう」とは言うけれど、なかなか難しい。
だから修行しないと・・・。(うぅ~ん・・・。)

嶋田の独り言「2009年6月」

登校拒否は、自主性・社会性の欠乏症であると言われます。とすれば、子供達の自主性を奪っただれかが存在するはずです。

よく、登校拒否は母親の過保護によると言われますが子供の問題を考える場合には、父親も責任を免れません。

父親ないし父親像の家庭不在ということが大きな原因の一つになっています。父親の死亡、離婚、家出などによる不在はもちろん、

父親が健在であっても職業の関係などによる不在の家庭に多いようです。しかし、より問題になるのは、父親が同じ屋根の下に

生活しているのに父なき状態になっている家庭の場合です。

①父親と子供の接触が薄い場合で、激職の会社員、医師、教員などの家庭

②祖父母が実権を握っていて父親らしく動けない家庭

③父親がごく当たり前にせいかつしているが、母親代行的な父親になっていて、精神的な主導権を母親に任せてしまった家庭

などで、このような家庭に不登校が出てきている例が多いようです。

 これらのいずれにも共通していえることは、父親が家庭の中で子供の心の支えとして役割を果たしていないで、精神的に不在で

あることが挙げられます。本来、家庭における父親は、自らが社会の中で真剣に生き抜く姿を子供に示し、生活や社会の道筋を

教え、厳しさやたくましさを心の栄養として送り込み、子供の心をきたえていく役割をになっているはずです。ところが、仕事の厳し

さや忙しさの中で、無意識のうちに逃げ腰になっている傾向があるところに問題があるようです。希薄な父子関係に不安を覚える

、母親は、その空白を補わざるを得なくなり、一層濃密な母子関係形成するとともに、育児から教育まで、いつしか家庭生活のすべ

ての主導権を握るようになる事が少なくありません。

 母親による父親約の代行は、母性の根本的な特性とも言うべき、温かく育む、優しい感情を断ち切ってしまう結果になりがちです

。一人二役の無理がそうさせてしまうのです。このために、母親は子供との関係に不安を覚え、この情感の断絶を埋める為に、無

意識に動物的ともいえる共生的な状態に陥ってしますことになりがちです。子供は、母親に包み込まれてしまうために、母親との

分離ができず、母親の自我を借りたまま成長する事になります。このような自我の未熟さが、登校拒否の根本問題を生んでいると

考えられます。

 つまり、母親の父親役の代行は、父親役とは似て非なる過保護・過干渉になり、結果的に子供が依存的になったり、自己選択

や自己決定の体験、失敗の体験が少なくなったりして耐性の弱い、自主性・社会性の乏しい子にならざる得ないのです。

 子供の成長と独立を願いながら、実は母親自ら子供を離れて独立できないでいると考えます。

テーマ : 子供の教育 - ジャンル : 学校・教育