スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

スクールの考え方「第八回」

人生

不登校の児童生徒の増加は著しく、全生徒の2%に達し社会問題となっています。一部の識者は、この現象を抑圧体制である学校へのプロテストと捉えていますが、実態はかなり異なっています。学校の体制・ありようは、ここ30年ほとんど変わっていません。変わったのは子供です。

不登校の生徒に共通して言える事は、非常に依存心が強く自己中心的な点です。物事を真面目に考え込むタイプで、周囲に合わせる事ができません。プライドが高く勘が鋭いので、クラスや友人間で孤立しやすく、家に篭るうちに昼夜が逆転し、家族としか関わらないから社会性を失い、社会適応能力がなくなります。耐えた経験が少ないので、こらえ性が無く、嫌な事を我慢できません。社会規範を学ぶ機会が少ないので、やる事が頓珍漢で知らないうちに周囲と摩擦を起こします。マイナス評価が多いので自分に自信が持てません。

「学校なんてつまらないからいかなくてよい」という識者もいますが、問題はもっと深刻です。つまり彼らはある特定の学校に行かないのではなく、社会全般に行けないのです。

学校に適応できないという事は、社会に適応できないとほぼ同意義です。
学校はその国の社会のモデルです。
学校は確かに退屈な所で、尊敬する教師も信頼できる友人もいないかもしれません。しかし、それに耐える事によって子供は社会性を身につけていきます。時間を守って登校する、掃除をする、給食を食べる、授業を聴く。10歳から15歳の子供が学校を経験せずに社会性を身につける事はおそらく不可能でしょう。

同年代とも地域とも関わらない事は、人格の形成に歪みをもたらします。知的好奇心が旺盛な思春期の子供が社会との関わりを拒絶するならば、それは深刻な心の問題と認識した方が良いでしょう。

この子供達の自己否定は深刻で、母親はまずその子の存在を受容しなければなりません。父親はその母親を支えなければいけません。
不登校という現象は学校に対して起こりますが、真の要因は家庭に有るので、家庭が変わらなければなりません。

受容から生活習慣の確立、社会トレーニングの練習、平行して個別カウンセリング、心の内面の吐露から規範の学習へとステップを踏み、時間をかけてゆっくりと療育を行うべきでしょう。一定期間家を離れるのも効果的です。出来た事を誉めてあげる、出来るようにプロセスを組んであげましょう。

戦後の民主化や経済の成長・生活の豊かさを否定する必要はないですが、物質的に豊かになるだけで人間は豊かになれません。人間として本当に豊かな社会とは、経済と共に心が豊かな社会である事を認識すべきです。心の豊かさとは理想を求める心で、我々は子供に対して新しい社会のビジョンを示すべきです。互いに助け合い分かり合える社会をです。現代の若者は非常に孤独です。

人間を支配するものは、お金ではなく理念です。それが無ければ集団を維持できません。子供には理念を示すべきです。子供が変わる前に大人が変わらないといけません。父親・母親は面子やプライドを捨てて、子供と一人の人間として向き合うべきです。
初めはそっぽを向いていてもいずれは心を開くものです。子供を助けるのは親しかいません。子供は愛される事によって落ち着きを取り戻し、躾られる事によって社会の規範を学びます。

皆と一緒に勉強したり、歌を唄ったり、掃除をしたり食べたりする事を心と体で体験する事で生きる事の喜びを味わってほしいのです。人生に喜びや夢を持ててこそ、嫌な事にも耐えられるのです。


「人生は美しく、意味がある」ことを家に閉じこもっている子供達に教えなければなりません。
スポンサーサイト

テーマ : 子供の教育 - ジャンル : 学校・教育

スクールの考え方「第七回」

コンプレックス

人は誰しもコンプレックス(劣等感)を持っていると思います。背の高い人、低い人、頭の良い人、そうでもない人、面白いのは、背が高いのを悩む人や、頭が悪くても悩まない人がいることです。

周囲の目が気になるのは、自分の欠点を見られている気がするのですが、その人の気持ちの中に、人に良く見られたいという願望が強いからです。本当の自分は違うのよと周囲より高い位置にいるのです。プライドの高い人に見られる特徴は、実に高い理想や希望を持っていたり真面目な人が多かったりするのです。

事実がコンプレックスを生むのではなく、それを見る視点の高さによるのです。90点で「あと10点とれば」となげく満点主義者、勉強しなくても「20点とれた」と喜ぶ楽観主義者、人それぞれでしょう。

勉強で成積が伸びないと嘆くのは問題とならないのは、それが努力すれば変化しうるからです。ところが、日本人であること、背の高いことを悩み始めると訳がわからなくなります。解決しようがありません。

天神で金髪のお嬢さんに英語で道を尋ねられた青年は「I can’t speak English little・・・」とつぶやきながら走って逃げてゆき、それから部屋にこもって英語の猛勉強をするわけですが、その青年はフィリピンの女性には平気で日本語で話し掛けるのです。心の中は「俺は恥をかいた。英語が喋れるようになるまで外へは出られない」です。

本当はその美人にもてたかったのかもしれないし、なにより白人に対する憧れが強かったのでしょう。日本人であることをコンプレックスに感じていることに本人は気づかないのでしょう。

織物は縦糸と横糸、縦糸は変えられないもの、横糸は自分の人生で紡いでいくものとするならば、長い人生でその人なりの模様ができたときその人柄ができるのです。          何ともならないものはあきらめを、なんとかなりそうなものはそれなりに                   人は立派な人生を歩むことが大切です。英語が喋れなくても、金髪の奥さんでなくても良いのです。困っている人に道をたずねたら、その人の手を引っ張って郵便局まで連れていってあげる、そんなことが出来るのが“立派”な人です。

劣等感からの自由、とらわれからの自由を考えるとき、大切なものは何なのか、今一度考えてみることです。

テーマ : 子供の教育 - ジャンル : 学校・教育

スクールの考え方「第六回」

トラウマからの開放

幼い頃のつらい体験が心の傷となって、心理的成長に影響を与える心的外傷(トラウマ)の考え方は、それを極端に一般化すれば誰もが心の傷を持つ被害者になってしまいます。幼児虐待や育児放棄などの特殊な例を除けば現在十三万人を超える不登校の子供達の多くはトラウマを持った患者とは言えないでしょう。

ではなにが原因となって彼らは動けないのでしょうか。それは物の見方、考え方と関係があります。コップ半分のジュースを見た時、まだ半分あると思う人と、もう半分しかないと思う人がいるように、人の見方によって気持ちが異なります。気持ちは、事実によってではなく、それを見て、考える仕組みによって変化するのです。成績優秀のA君は、期末テストの成績が思ったほど良くなくて落ち込んでいます。A君より下位の成績のB君は元気です。実はA君は次のように考えているのです。

「テストの結果が悪かったので、先生や両親は自分を駄目な奴と思うだろう。そしてみんながそのように考えるのも無理はない、確かに自分は周囲の期待に応えられるような立派な人間ではない。きっと自分は駄目な人間に違いない。」

A君は朝起きようとすると気分が悪く登校を渋ります。彼はテストの結果が、気分が悪い原因だと思っています。周囲の人たちは、「そんな事ぐらい気にするな。君には他にも立派な能力があるじゃないか。」と励ますのですがなかなか動きません。彼がテストの結果を認識する過程の中で、人はこう思うだろうと勝手に類推したり、自分に対する低い評価をする事が、感情を不安に落としいれるのです。彼は「成績が良ければ将来きっと幸せになれるに違いない」という思い込みを持っているからこそ、そうでない事実を受入れられずに悩んでしまうのです。

頭でっかちの完璧主義は、「きっと~に違いない」、「~であるはずだ」という一見、正当に思える思い込みを持っていますから、そうでないと駄目だというマイナス思考を引き起こすのです。一歩間違うと人格の否定にまでつながりかねません。そうなると学力をつければ問題解決とはなりません。

不登校の子供達の問題は、「学校へ行く、行かない」と言ったったレベルのものではありません。緊張場面に出合うと、否定的、消極的、悲観的な考え方をしてしまう事が問題なのです。わずかな矛盾を受け入れられない純粋さや、小さな欠点を許せない理想主義は、自分を苦しめる事になりかねません。思い込みから来る心がいつも同じ事ばかり、否定的側面ばかりに支配される状態をとらわれといいます。

どうすればとらわれから開放されるのでしょうか。まずリラックスする事を考えて下さい。リラックスは何も思わない事なのですが、現実にはなかなか難しい事です。「今から3分間なにも考えないで下さい。」というリクエストに答えられる人は、少ないはずです。リラックスするには、ある事に一心に集中する事です。坐禅で息を整える事だけに集中した後「ホッ」とするのは、リラックスを生むからです。写経や下坐業も一生懸命する事もリラックスする効果的な方法です。緊張とリラックスを日常生活に工夫して取り入れ、生活にリズムをつけると、マイナスに傾いていた心も、ニュートラルになり、喜怒哀楽が自然に出てくるようになります。

次のステップは行動・実践です。人の目を気にする人たちの多くは、他人から良く見られたいという願望が非常に強く、現状の自分を認められません。「人が悪口を言っているのではないだろうか」、「みんなは私の事を迷惑に思っているのではないだろうか」、周囲の視線がストレスとなり、弱い自分を責めたり、そんな自分に育てた親を怨んだりします。視点のポイントを変える練習が必要です。外に出て人に会ったために、こんなに苦しい思いをしたと感情を重視してしまうのですが、きつくても朝起きた事、苦しくても電車に乗れた事、つらくても人と話が出来た事、実践をする習慣を身につける事です。

人が変わるという事は、性格を変える事ではありません。おとなしくても積極的、神経質でも肯定的、楽観的な人はいます。思い込みによるとらわれから開放され、見方、考え方が明るく、前向きに、行動が積極的になる事が変わるという事なのです。つらい事があったが、あれはあれで意味があった。上手くいかなくてもやってみるか。将来は多少不安だけど何とかなるさと、少しずつ変わる事は大変な事なのですが、焦らず時間をかけて取り組む事です。過去に肯定的、現在に積極的に、未来に楽観的な見方・考え方が出来れば最高です。

人は、自分で考えて決めてやろうとした事はたとえ苦しい事があっても、何とか耐えられるものです。嬉しい時には笑い、苦しい時には泣く、当たり前の毎日が幸せなのです。今、朝起きれない人も、起こされたら起きる。なるべく自分で起きるようにする。それが出来るようになったら人より早く起きてみる。そして人より早く起きて人を起こしてやる。優しさ・思いやりは実践を伴った他者への貢献です。自分に偏った関わりから、自他双方を考えた関わりを持つ事が出来るようになれば、より良い調和とたくましさを生むでしょう。

テーマ : 子供の教育 - ジャンル : 学校・教育

スクールの考え方「第五回」

依存は三代

長く引きこもりをする男の子の父親には、長男が多いようです。祖父母に大事に期待され育てられたために、周囲に自然に合わせてしまう性格が作られている場合が多々あります。正直であるが融通がきかない、真面目であるが要領のよくない父親の多くは、職場や地域の中では評判の良い、どちらかといえば温厚な男性で通っています。

子どもが「学校へ行きたくない」といった時、突然大声を出したり叩いたりする人もいますが、その多くは対立を避けてしまいます。奥さんに「おまえに任せる」とだけ言って仕事に向かっていく。対立・対抗を避けてきているという意識は本人達にはないでしょう。あるのは葛藤です。

「自分は周囲の期待に必死で耐えてきた。また我慢することによってそれなりの成功、現状の生活を掴んできたのに…。」という思いと、「今は自分が育った時代と違い、子どもの考えを尊重する時代なのだから、言い分を十分聞いてやるのが正しいのだろうか…。」とする二つの思いに揺れていると考えられます。

子どもが学校へ行かなくなった時、最初に相談に来るのは母親であり、父親が相談に来る例は、全体の一割に満たないのです。父親の影が薄い、存在感が感じられない、「父性の復権」が叫ばれるのはまさに、引きこもり家庭の父親です。「依存は三代にわたる」祖父母の育て方と孫の引きこもりは無関係とはいえません。

同じ兄弟、いとこ同士で不登校の例は珍しくありません。子どもが思春期に入ろうとする時期、幼児的依存心(甘え)が強い子は、母親の過保護・過干渉から母子密着が強く、外へ出ていけなくなります。この時、母親の養育態度を変化させ、子どもを自立へと向けていく役割こそ父親の役割なのです。

父親が子どもを依存から自立へ向けて発達を促すことは可能ですし、責任でもあります。母親の愛情と経済的基盤があれば、子どもの成長に十分であるとはいえません。不登校は大人になりたくない病、父親いない病、社会に出たくない病といえるかもしれません。ではどうすれば良いのでしょうか。

父親はまず母親の気持ちを聴いてやることが求められます。会社での仕事や人間関係で疲れているので、「家ではゆっくりさせて欲しい」、「俺を分かってくれ」、「少しは甘えさせてくれ」と妻に母親の変わりを求める態度そのものが依存と言えます。妻が感じている不安や苛立ちは、一緒に共有して欲しいのです。よき社会人がよき父親であるという保証はありません。妻の立場に立ってみて下さい。

次に子どもの気持ちを理解して下さい。気持ちを理解するというのは、言っていることを正しいと容認するということではありません。理解して欲しいのは「本当は外へ行きたいのに行けない」という気持ちをです。

人は皆、強い面もあれば弱い面もあります。プライドが高い子供達は、弱さを受け入れられません。いつでも良い子で誰にでも愛されようとすることは無理があります。だから動けなくなってしまいます。つまり「弱い」のです。本当の強さとは、実は弱さを認めることです。父親は謙虚に自分の良い所もそうでない所もオープンにすることです。子どもに、弱い点があっても十分にやっていける事を見せてあげることです。決して説教ではなく、行動、態度で示してやって欲しいのです。それこそが、子どもを受入れることになるのです。それが親の自信につながります。

自分自身に対しては、まず形から変化させることです。表情・言葉・行動を変化させることです。「あの人変わったね。」、「最近ちょっと違うね。」と言われるようでないと駄目だと思って下さい。明るく、前向きに、積極的に少し無理をしてみることです。子どものために教育的であろうとすれば、教育的でなくなります。自分自身のためにやる事が、実は教育的なのです。子どもの為ではありません。

不登校の子どもの家は、父親の影が薄いのですが、本当は子どもが尊敬する父親がいないのです。マザーテレサは優しい人でしたが、同時に強い信念の人でもありました。尊敬される人たちに共通しているものは、敬するものを持っている事です。尊敬される人たちは、敬するものを持っているから強く、そして優しくなれるのです。なにを敬うか、なにを信じればば良いのか、人それぞれでしょうが、それがあれば自分を律する事も、そして自分を向上させようと、謙虚に自分を磨く事も出来るのです。今、問われているのは父親自らがそれを求める心なのです。甘えている人は、嫌な事があると他人に頼ります。物事が上手く行かないと、他人のせいにしてしまいます。

子どもの問題に見えるものを、自分の課題に置き換えて、世間を怨まず、他人をひがまず時代や学校のせいにしないで生きて行こうとする姿勢が問われているのです。坐禅や写経、トイレ磨きやボランティアなど自分を磨こうとすれば古今東西さまざまな手段が考えられています。毎朝六キロジョギングしてみて下さい。「なぜ走るんだ」「俺のどこが悪いんだ」「なにを信じれば良いんだ」これらの問いに対する答えは簡単に見つからないかもしれません。しかし答えは自らが出す以外にありません。そして何かを求めるその姿勢そのものが、子どもに未知への第一歩を踏み出す勇気を与えるのです。

テーマ : 子供の教育 - ジャンル : 学校・教育

スクールの考え方「第四回」

個の時代の中で

登校拒否の生徒に共通しているのは、親は中流階級であり、子どもの性格は自己中心的、自己主張が強く、好き嫌いが激しい、真面目で考え込むタイプです。周囲にあわせる事が出来ず、意見を言い過ぎるためにクラスや友人間で孤立しやすく、いじめられやすい。
頭が良くてプライドが高いので徐々に学校に行かなくなります。家に篭る内に昼夜が逆転し家族としか関わらないので社会性を失い、社会適応能力がなくなってしまいます。耐えた経験が少ないのでこらえることができず、嫌な事があると我慢できません。社会規範を学ぶ機会が少なくなるとやる事がトンチンカンで知らない内に周囲と摩擦を起こします。

「学校なんかつまらないから行かなくなくてもいい」という人もいますが、問題はもっと深刻です。彼らはある特定の学校へ行かないのではなく社会全般すべてに行けないのです。

登校拒否の子が十六歳や十八歳ですぐに社会に出て生活していける事はまずありません。学校はその国の社会のモデルです。学校は確かに退屈で、尊敬する先生も信頼できる友達もいないかもしれませんが、それに耐える事で社会性を身につけていくのです。
十歳から十五歳の子どもが学校へもどこへも行かず社会性を身につける事はおそらく不可能です。同年代とも地域とも関わらない事は人格の形成に歪みをもたらします。

人間は社会的な動物です。ヒトは個別な存在であると共に類的な存在です。知的好奇心が旺盛な子どもが社会との関わりを拒絶するならば、それは深刻な心の病と認識した方がいいでしょう。

不登校がこれほど増加した事を、一部の人は抑圧体制である学校へのプロテストと捉えているようですが、実態はかなり異なっています。学校の体制・有り様はここ三十年ほとんど変わっていません。変わったのは子供達です。父親達の多くは会社人間となり家族を省みる事がありませんでした。母親は家庭人間となり子どもに過度に干渉する教育ママになってしまいました。子どもは母親に受容される事で安定を得、父親に抑圧される事で社会性を学ぶのに、優しく寛大であるべき母親は口うるさい存在で、威厳ある存在であるべき父親は家にいません。
母親の口うるささが嫌になって自己主張を始めた子どもに、仕事に疲れた父親が「自分で良く考えて」といえば子どもが忍耐心のない自己中心的な人に育つのは仕方ありません。世の中には嫌な事があってもそれに耐えて生きないと行けないとか、生きる事は大変な事で真剣に生きないと誰からも相手にされなくなる事を教えられずに必要以上に衣食住を与えられればまともに育たないのは当然です。

戦後の民主化や経済の発展、生活の豊かさを否定する必要はありませんが、物質的に豊かになるだけでは人間は豊かになれません。
人間として本当の豊かな社会とは経済と共に心が豊かな社会である事と認識すべきです。
われわれ大人は子供達に対し、互いに助け合う、分かり合える社会のビジョンを示すべきです。

人間を支配するものはお金ではありません。理念です。それがなければ集団を維持する事は出来ません。日本の農村社会を伝統的に支えてきた儒教や家族主義は、六十年以降都市型社会に移っていく過程でその力を失ってきました。
かわりに歓迎された西欧の近代主義の理念である「自由」や「平等」、「個人主義」が本当にこの国に根づく事はありませんでした。「人に迷惑をかけなかったらやりたい事やっていいでしょ」茶髪やピアスの子どもに戸惑った大人は、「個人の自由」の前にただただ沈黙するばかりです。

欧米では「自由」とはカトリックの抑圧からの自由であり、「平等」とは王権や教皇を頂点とする階級社会の打破を意味しています。彼らはカトリックを否定しても神を否定しませんでした。より良い社会を作る事、そしてそれは神の御旨にかなう事であるというのが欧米人の理念です。
東北アジアの根本宗教は儒教です。儒教の大きな特徴は祖霊信仰と現世における家の繁栄志向です。つまり我々の命を育んでくれた先祖を尊び、慰霊し、現世においては良く学び、良く働き家を繁栄させ多くの子孫を残す、家庭や家族が大切にされ家族主義となります。根強いキリスト教社会である西欧では、神を畏れ、神が利己を抑止するのと同じように、儒教の家族主義では、神の地位に家族が利己を抑止してきました。家族に対して畏れを抱かなくなった時、利己の抑止力がなくなり、利己主義者になってしまいます。

「温故知新」われわれ日本人は、本質的に儒教的です。この五十年間顧みてこなかった儒教の道徳教育をきちんと学校や家庭でして欲しいと思います。

子供達には、基本的な事を教えたいのです。
自分の事は自分でする。時間を守る。人をいじめない。自分の部屋を掃除する。知り合いに会ったら挨拶する。
愛される事によって子どもは落ち着きを取り戻し、躾られる事によって社会の規範を学びます。

人と一緒に歌を唄ったり、掃除したり、食事をしたりする事を心と体で体験する事で生きる事の喜びを味わわせてあげるべきです。
人生に喜びや夢を持ててこそ嫌な事にも耐えられます。「人生は美しく意味がある」ことを家に閉じこもっている子供達に教えなければなりません。

テーマ : 子供の教育 - ジャンル : 学校・教育

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。